当ブログで扱うネタあれこれ
Nobody Knowsは運営者μ(ミュー)の完全なる個人的趣味+α(雑記)のブログです。
ですから、ここで扱うネタは私の独断と偏見による「好きなもの」や「心を動かされたもの」がメインとなります。
私の趣味は本を読むこと、音楽を聴くこと、映画を観ること、旅に出ることなので、これらのジャンルの記事が多くなるかと思っています。
好きなものにまあまあ偏りがある方だと自覚している私ですが、どんな傾向かと言いますと…
本 →→ 岩波少年文庫を読んで育ったため、世界の児童文学が心の故郷。神話・伝説・神秘学・象徴学が好きなのはおそらく幼少期に多大な影響を受けたインディ・ジョーンズのせい。
音楽 →→ 90年代に洗礼を受けたシューゲイザー/ドリームポップの呪縛からいまだに逃れられずにいる永遠の人見知り陰キャ。洋の東西を問わず伝統民族音楽が現代音楽に融け込んでいるような楽曲になぜか心惹かれる。
映画 →→ ミニシアター系のインディペンデント映画が好き。複雑な人間の感情が繊細かつ控えめなのに情熱的に描かれるヨーロッパ映画が好み。動画配信サービスのマイリストが増えるばかりで、観るのがまったく追いつかないのが目下の悩み。
とまあ、こんな感じです。
これに加えて最近は韓国語の勉強を始めたので、韓国文学、K-POP/ K-Indies、韓国映画、韓国ドラマなどにもよく触れています。
ただ、自分の世界は常に拡張し続けていきたいと考えているので、上記のような個人的嗜好はサンクチュアリとして永久保全に努めつつ、意識的に多様なものに触れるように心がけています。
年齢を重ねてゆくと、無意識に現状維持を求めていろいろな面で保守的になりがちな自分に気づいてしまいます。
だからこそ、新たな扉をどんどん開けて、新鮮な驚きや感動による刺激を自分自身に与え続けてゆきたいと思っています。
というのが、当ブログの表の顔です。
そう、表があるなら、同じように裏がある……のが世の常なのです。
健全な自己愛あるいは自己肯定感の回復への長い道のり
実は、このブログは自分嫌いな私が自己肯定感を回復するという裏テーマのために開設しました。
子育てをしていると子供の自己肯定感を高めることがとても大切だとよく言われますよね。
実際、本当に小さい頃ってすべての子供は自己肯定感を高める必要なんてほとんどなく、自己万能感に満ち溢れているように感じます。
でも、いつかのタイミングで他人から制止されることや、近しい人から受容されなかった体験などを通じて、少しずつ自己に否定的な視線を向けるようになっていく。
その小さな積み重ねがいつしか「塵も積もれば山となる」で、自己肯定感が低い子が出来上がっていってしまうのだと思います。
私の息子は自分のことが大好きな側面と、自分のことが大嫌いな側面をもっています。
おそらくそれは現代の日本で育つ子供にとってごく一般的なことだと思うのですが、その矛盾に苦しむ姿を垣間見る時に親としてはとても切ない心持ちになります。
息子が健全な自己愛を育むために、親の支援的な関わりがとても重要だと思う一方で、ふと「自分は健全な自己愛を育んできたのだろうか?」と自問してみると、私自身がちっとも自分自身を好きじゃない!という現実に直面せざるを得なくなりました。
以前はできていたのにできなくなってしまったこと
かれこれ十年以上前のことになりますが、私がまだ独身だった頃、個人サイトでブログを書いていたことがありました。
細々と更新する趣味+雑記ブログでしたが、コメントを寄せてくださる常連さんもいらして、オフ会を開けば十人ほどが集まり楽しく交流させていただいていました。
ブログを書くことも読者の方々と交流することも楽しくて、モチベーション云々なんて言葉が意識にものぼらないくらい、生活の一部として呼吸するようにブログ執筆を継続できていました。
そんな私も結婚・出産を経て、人生のフェーズが変化するにつれてブログを書く時間を確保することがだんだん難しくなっていきました。
授かった命を絶やさないよう24時間必死で赤ちゃんのお世話に献身する時期が過ぎ、子供が成長して少しずつ手が離れるようになった今、やり繰りすれば多少の時間を確保できるようにはなりました。
でも、なぜか以前のように気楽にスラスラと文章を書けなくなっている自分に気づきました。
以前は深く考えずに独りよがりな想いをつらつらと書き連ねることに抵抗を感じなかったけれど、大人になって客観的な視点を持てるようになったから。
というわけでもなく、正直なところもっと卑小な理由です。
他人の目を気にし過ぎたら
いい年をして恥ずかしいのですが「こんなことを書いたら、どんな批判がくるだろう」と、発信する前から否定的な反応に怯えてしまって伸び伸びと自然に文章を書くことができないのです。
(実際、最初の記事を投稿してから毎日のようにPCを開いて文字を打つものの、なかなか一記事を完成させることができず、書いては消しまた消しては書いてを繰り返して2週間以上が経過していました)
そして、そんな自分の様子を「誰も見てないのに、意識過剰なのね。」と私の中のシニカルな私が冷笑しながら見ています。
些細な行き違いから起こる誤解や炎上を恐れるあまり、いつの間にか本音を隠すことが癖になってしまっている自分が惨めだし哀れにも感じます。
いつも意識を向けられる限り全方位に配慮して、間違いのないやりとりをするために警戒ばかりしているから、なんだか常にぐったりと疲弊しています。
和を尊重して周囲と協調する日本人的な美徳といえば聞こえはいいのですが、波風を立てないことを優先するあまり言いたいことを飲み込んで本心を隠し続けることは、臆病で卑怯だと感じますし、とても幼稚だとも思います。
そうやって人目を気にしながら自分の気持ちを隠し続けていると、自分の中心にある核のようなものが日に日にすり減って、ゆっくりと確実に自己嫌悪が進行してゆくのだと思います。
動揺して傷ついているのに平気なふりをする。
嬉しいことがあってもその陰で悲しむ人のために素直に喜ぶ姿を見せないようにする。
内心では憤慨しているのに寛容なふりをする。
欲しくないものをもらってもお礼を言って、
笑いたくない時にも笑顔を作って、
泣きたい時にも人前ではおくびにも出さず、
次第に無表情、無感情、無感動になっていく……。
気がついたら自分という存在まで無に帰してしまったかのようで「こんな状態で私に生きる意味なんてあるのかな?」と暗い深海の淵に佇んでいるような気分で、ここ数年を過ごしてきました。
自分を愛する
そんな時に「自分を愛する」ことの大切さを伝えながら、自分自身も真摯にそれを実践している人と出会ってとても感銘を受けました。
「自分を愛する」なんて当たり前のことのように聞こえますが、私にはとても難しく感じられます。
同じように困難さを感じる人はたくさんいるだろうと思います。
聖人君子じゃなくていいから、今のありのままのへなちょこな自分を認めながら、誤りや至らなさは反省して修正する。
そして、他の誰にも代われない自分だけの人生をよりよく生きるために、未来の自分に期待しながら日々自分だけが知っているたゆまぬ努力を続けてゆく。
努力の分だけ結果を得られて、結果の分だけ自信を重ねて、少しずつ自分を好きになってゆけたら。
そんなふうに思います。
もう一度、自分を好きになるために
そこで、自分嫌いな私がもう一度自分を好きになるために自己肯定感を高める方法として思いついたのが「自分の好きなもの、自分の心が震えるものについて書いてみる」ということでした。
本や音楽や映画など、自分が感動したものについて書くことによって、「自分の好きなもの」の共通点が見えてきそうな気がします。
そしてきっと「自分の好きなもの」にはどこかしら「自分と似ているところ」があるはずだと思うのです。
それを「自分を愛する」ための端緒にして「愛すべき自分」を再発見できることを期待しています。
それができたら、息子にも「どんな時にも自分をせめずに、まずいちばんに自分自身が自分を愛してあげてね」と本心から、嘘偽りなく伝えられるような気がします。
もちろん、今この瞬間から「自分を愛する」と決めて実践できればいいのですが、頭で理解することと腑に落ちることはまったく別物なので、残念ながら今の私にはまだできません。
だから、まずは、できることからひとつずつ。
すり減っていった自分の核のかけらを、少しずつ拾い集めていこうと思います。