自己肯定感を高める方法

以前はできたのに、できなくなってしまったこと

かれこれ10年以上前のことになりますが、私がまだ独身だった頃、個人WEBサイトでブログを書いていたことがあります。細々と更新する趣味+雑記ブログでしたが、コメントを寄せてくださる常連さんもいて、オフ会を開けば6〜15人くらい集まって、わちゃわちゃ楽しくつるんでいた日々は今でも良い思い出です。

そんな私も結婚・出産を経て、人生のフェーズが変化するにつれてブログを書く時間を確保することが難しくなりました。授かった命を絶やさないよう24時間必死で赤ちゃんのお世話に献身する時期が過ぎ、子供が成長して少しずつ手が離れるようになった今、やり繰りすれば多少の時間を確保できるようにはなりましたが、なぜか以前のように気楽にスラスラと文章を書けなくなっている自分に気がつきました。

他人の目を気にし過ぎたら

いい年をして恥ずかしいのですが「こんなことを書いたら、どんな批判がくるだろう」と、発信する前から否定的な反応に怯える自分がいるのです。些細なことから炎上してしまう揚げ足取りだらけのSNSや、よその家庭の価値観にまで逐一口を出したがる子供の学校関係者たちに気兼ねしてばかりいるせいか、いつの間にか本音を隠すことが癖になってしまったようです。

和を尊重して周囲と協調する日本人的な美徳といえば聞こえはいいのですが、波風を立てないことを優先するあまり言いたいことを飲み込んで本心を隠し続けることは、臆病で卑怯だと感じますしとても幼稚だとも思います。だからといって、和を乱すようなそぶりでもしたら、めざとく見つけて異常なまでに叩く人が存在するのも事実で、苦しめられた実体験を忘れることもできません。

そうやって人目を気にしながら自分の気持ちを隠し続けていると、自分の中心にある核のようなものが日に日にすり減って、ゆっくりと確実に自己嫌悪が進行してゆくのだと思います。動揺して傷ついているのに平気なふりをして、嬉しいことがあってもその陰で悲しむ人のために素直に喜ぶ姿を見せないようにして、内心では憤慨していても寛容なふりをして、欲しくないものをもらってもお礼を言って、笑いたくない時にも笑顔を作って、泣きたい時にも人前ではおくびにも出さず、次第に無表情、無感情、無感動になっていって……。気づいたら自分という存在まで無に帰してしまったかのようで「こんな状態で私に生きる価値なんてあるのかな?」と暗い深海の淵に佇んでいるような気分で、ここ数年過ごしていました。

自分を愛する

そんな時に「自分を愛する」ことの大切さを訴えながら、自分自身も真摯にそれを実践している人と出会いとても感銘を受けました。「自分を愛する」なんて当たり前のことのように聞こえますが、私にはとても難しく感じられます。同じように困難さを感じる人はたくさんいるだろうと思います。

私には、幼い頃、世界に自分が受け入れられていることになんの疑いももたず、自分もまた100%完全に世界のすべてを抱きとめながら「自分を愛する」ことが当たり前だった幸せな時代がありました。それは時間にしたらとても短い期間でしたが、その安心感や多幸感は何十年もたった今でも色褪せません。物心ついて、いろいろな人間関係に揉まれて社会の中で必要とされる暗黙のルールを覚えていくうちに、少しずつ損われてしまったけれど、また、あの頃のような健全な自己愛を取り戻したいし、我が子にもどんな時も自分を責めずに、まずは自分自身を愛してあげてほしい、と願っています。

もう一度、自分を好きになるために

そこで、自分嫌いな私がもう一度自分を好きになるために自己肯定感を高める方法として思いついたのが「自分の好きなもの、自分の心が震えるものについて書いてみる」ということでした。本や音楽や映画など、自分が感動したものについて書くことによって、「自分の好きなもの」の共通点が見えてきそうな気がします。そしてきっと「自分の好きなもの」にはどこかしら「自分と似ているところ」があるはずだと思うので、それを「自分を愛する」ための端緒にして「愛すべき自分」を再発見できることを期待しています。

もちろん、今この瞬間から「自分を愛する」と決めて実践できればいいのですが、頭で理解することと腑に落ちることはまったく別物なので、残念ながら今の私にはまだできません。だから、まずは、できることからひとつずつ。すり減っていった自分の核のかけらを、少しずつ拾い集めていこうと思います。

自分の感受性くらい

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